2011年2月27日日曜日

金網の向こう


フロリダの少年&少女刑務所でのショーは、
予想通り、門をくぐったところから、2重の金網で、
てっぺんにはぐるぐるの針車が青い空を刺していた。
ただその金網はそれほど高くなく、
明るい太陽のせいか、物々しい感じは予想以下だった。

私のショーに入ってきた高校生のグループは、
女子のグループも男子も、目をきらきらさせて
よく笑い、よく考え、楽しく見てくれた。
普通の高校生と変わらない。

昼休みに担当の指導者3人とランチ。
「そうでしょ。普通の高校生よりもいい位よ。
だって、娯楽がないんだもの。ここには。だからありがたい気持ちがあるの。
それにね、この子達は家庭が貧困だったり、荒れていたりする子がほとんどで、
まともに自分の街以外は知らないわ。
出たことがないし、そういうチャンスをもらったこともないの。
だから、あなたのように日本の作品をもってきてくれると、彼らの冒険心をみたす新しい経験になるのよ。」

私はフロリダ州との契約で、福祉の必要な地域に行くことが多く、
こういう話はよく聞く。

ドアの全て、トイレから倉庫まで全てに鍵がかかっていて、
全てのドアに許可がいる。
ショーが終わると、軍隊の点呼のようにひとりひとりが自分を番号で答える。
ひとりひとりの靴が丹念にチェックされ、ポケットやシャツの中まで点検される。
でっかい高校生達が指人形のように真っ直ぐ立ちで、
誰一人として反抗的な態度をとらず、
空港のセキュリティを通るような従順な顔で、
7人もの指導者の指図に従って、出ていく。

「そりゃね、ルールが厳しいし、従わなかったら即座に罰則による対処があるわ。
ここは全てにルールがあり、生活ルールをもつことを学ばせて、
選択なしに勉強をさせられて、カウンセリングを受けて、更正の道を歩むの。」
 
私は甘さと苦さのアイスティを飲んで、ふと言ってみた。
「それはある意味、家庭から与えられなかった秩序みたいなもんで、
彼らにとっては前を向けて、嬉しいことかもしれないね。」
コドモの発育には安定した環境と生活ルールが必要で、
それがないことはコドモにとって不安、時には恐怖感を伴う、と教育書で読んだことがあった。
 
ここには自由はないけれど、
家庭暴力やドラッグなど、はらってもはらってもふりかかってくる不安定な環境はなく、
いいようのない恐怖をルールのある生活で戦い、勝ちや負けを重ねて、
新しい道を歩くスタート、もしくはチャンスがここにはある。
 
質素なポリエステルのワンピースにプラスティックのイヤリングをした指導者は、
サラダからたまねぎとクルトンをよけて、パクパク食べ、さっさしゃべってくれる。
「ほとんどの子達は、ここに来て、荒れた生活を変えるの。一生懸命がんばってるわ。だからあなたの言うように、ここに来て嬉しい部分はあるといえるわよ。だって刑期が終わっても、わざと悪いことをして、ここにもっといようとする子が多くいるもの。」

最後のショーでは、私の篠笛を近くで見たいと、指導者にお願いした子がいた。
まん丸の顔で目もまん丸で、巻き毛もまん丸で、大きなそばかすが顔の真ん中にあって、
肌がドラ焼きみたいな色で、なんとまあ可愛い高校生。
「僕、この音、大好き」
それだけを言って、退場していった。
すごく吹きたそうにしたので、指導者に許可を得て、ひとつを音楽のクラスに寄付した。
いつか彼が青空に向かって、篠笛を吹くのかな、とか思うと、一緒に吹きたくなった。
金網の向こうから、太陽の光が、道をたっぷり輝かせていた。

2011年2月25日金曜日

身近なアーティスト




NYのもうひとりの友人(っつうか、ねーさん)に、ちょうだぁ~い、、、とお願いした作品。
かたちはトランプで、
色はきつねで、
花びらがハローって言うてる。



大きいとっては、私の大きな手を枕にし、
心地よさそうです。
(っつうか、私が心地ええねんけど、、、)

ねーさんの作品、とにかくねーさんらしくて、
そしてそれは、どんなアーティストでも、できそうでできないことで、
私はスキップしたくなる。(なんでやぁ?)
多分、そんなアートをする人が自分の身近にいることがめちゃめちゃ嬉しいからやと思う。

2011年2月24日木曜日

Tea in NY


NYに2週間近くショーの仕事でいき、

滞在中にあたしの昔のアネゴのパーティーに招待されました。

着物を着てきてね、といわれ、え?

写真左で、わかったフリしてます、私。

アネゴはここ数年、NYで「お茶」を勉強しておられ、こういう話になってもおかしくないのでありました。


お茶のお友達、、、というか、師匠になるくらいの方々もこられ、

アネゴの自宅の茶室でアメリカ人にお茶がふるまわれました。

その後、右側でお茶をたてておられるお友達とアネゴともう一度会う機会があり、
お茶のお話をきかせていただきやした。

利休のわびについて。
『南方録』、新古今集の家隆の歌

「花をのみ まつらん人に やまざとの ゆきまの草の 春をみせばや」

を「わび」の心であるとしている。

歌の意味は

世の中の人はみんな、「春といえば花」とばかり思い込んで、花が咲くのだけを心待ちにしているのだろう。そういう人に、融けかけた雪の合間から芽を出した草が萌え出ている、この山里の春の景色を見せてやりたい。

利休が意味したのは虚飾を去るわびの心であり、もっと深く追うと、花という最高の華やぎに近づいてこそ、「やまざとのゆきまの草」、飾り気のない美しさ、または無に近い美を知ることができる、ということらしい。アネゴ達の会話はさらに進み、最高の華やぎを知って掴んでこそ、飾り気のない美は、執着を捨てるわびの心になる。何もしらずにいて、美への学びがないままに、「やまざとのゆきまの草」をわびととらえるのとは違う。

ふ~む、なんと深いのだろう!